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本論文では、1960年代後半から1970年代前半にかけて流行した日本の未来学に焦点をあて、未来学がどんな時代状況を基盤として流行したのか、また未来学が果たした社会的役割を、日本の未来学の中心人物であった梅棹忠夫・小松左京の主張に依拠しながら考察した。
当時の日本は高度経済成長期を迎え、諸外国との経済的関係が深まる一方であった。そして、経済の国際化のみならず、精神面・文化面についても積極的な国際化をおしすすめることを梅棹・小松らは主張し、政府の積極的な対外政策を支える理論的支柱としての機能を果たした。そのさい、かれらは情報化社会の到来を前提として、「人類社会」の出現を予測し、人類社会において日本人が持つアドバンテージおよびそのはたすべき役割を理論化した。
それは、日本の経済的発展が西欧のまねではなく、日本独自の道のりをたどったこと、いうなれば「近代の超克」あるいは「オルタナティブな近代」としての日本の独自性を強調するものであった。そうした意味で、日本の未来学がはたした役割は、第二次世界大戦において京都学派や日本浪漫派がはたした役割と、好景気にわく1980年代以降に日本のポストポダニズム論がはたした役割との共通点が存在した。
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