学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2011年度 |
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タイトル | 自由人たるには―ハイエクの自由主義思想に学ぶ― |
内容 | 「自由」とは何を意味するのか?「自由」は如何にして保障されるのか?自由社会を生きる「自由人」たるには如何なる心構えが必要なのか?かかる疑問を明らかにする上で、本論文では自由の研究に生涯を捧げた一人の人物―F・A・ハイエク―の自由主義思想を読み解く事を心掛けた。その結果として明らかになった事とは、まず初めに、「自由」は「個人的自由」―可能な限り他人の恣意的意思からくる強制を受けずに、個人が自らの意思に基づいて目的に向かって行動する状態―である事。次に、その自由を保障するには、あらゆる個人に対して私的領域を与える事が必要不可欠であり、その為に諸個人を一般的規則の支配下に置く事、更にその一般的規則も超法的原則・政治的理念による「法の支配」を受けている事が判明した。そして最後に、以上の議論を踏まえて、「自由人」たるには己の意思に基づいた行動の結果に責任を持つ事―予見可能な事態を想定し、それへの対応を怠らず、不測な事故がなければ結果を素直に受け入れる事―が求められる、という結論に至った。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 個人的自由 |
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キーワード2 | 強制 |
キーワード3 | 法の支配 |
キーワード4 | 責任 |
キーワード5 |