学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2011年度 |
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タイトル | ガソリンスタンドの仕事 |
内容 | 20世紀、世界の発展は石油と共にあった。モータライゼーションにより、車は急速に普及していき、一家に一台は所有する事があたりまえとなった。そして、そんな車と共に登場したのがガソリンスタンドと言われる業態であり、誰もが気軽に給油出来る場として急速に広まっていった。しかし、21世紀はエコの時代といえる。どのように持続可能な社会にしていくかに人々の関心は集中し、各自動車メーカーもその実現に向けて動いていった。そんな中、エネルギーと密接に関わってきたガソリンスタンド業界は今大きな転換期を迎えている。ガソリン価格の高騰、ハイブリットカーの普及といったエコ社会に向けた大きな流れの中で、多くの店舗がその煽りを受け、毎年数えきれない程の数のガソリンスタンドが廃業へと追いやられているのが現状である。そんなガソリンスタンド業界について、過去から現在について改めて考察し、更には、ヒアリングを通じてその実情をよりリアルなものとして、卒業論文にまとめていく。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | セルフ式ガソリンスタンド |
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キーワード2 | ハイブリットカー |
キーワード3 | 油外収益 |
キーワード4 | |
キーワード5 |