学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2011年度 |
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タイトル | 雇用区分の多様化とその問題点 |
内容 | 多様な雇用区分を設けることは、企業の労働者獲得にも、労働者にとっては多様な働き方を可能にする方法となる。しかし、多様な雇用区分を設けることは企業に新たな課題をもたらした。企業は異なる雇用区分の労働者にそれぞれの雇用管理し、区分間で納得性をもてる仕事の割り振りや処遇に差異をつける必要性が増したのである。 実際の雇用区分を見てみると、雇用区分は上手く機能していないケースがみられる。近年問題とされているパートタイマー基幹化は、この問題が表出したものだといえよう。パートタイマーの仕事内容が高度化し正社員に接近しているにも関わらず、賃金の見直しや、雇用区分の再編が行われていない。改善が行われない理由として、いかにパートタイマーの労働を評価するのか、職務に値段をつけづらいことがあげられる。 パートタイマーの基幹化は、単に雇用区分や処遇の見直しを迫るだけでなく、日本の雇用制度が抱える弱さを顕在化させてもいる。また、ジェンダーの観点からみると多様な雇用区分が多様な働き方を提供しうるものなのか疑問がもたれる。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 雇用区分 |
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キーワード2 | 基幹化 |
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