学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 石田光男を読み解く |
内容 | 石田光男、本学の社会学部産業関係学科の教授であり、私のゼミの先生である。先生は、ほかの先生方とはどこか纏っている空気感が違う。選択肢必修ではなく、必修を単独で受け持っている先生だからか、否。学部長を任ざれたことがあるからか、否。 研究に対してだれよりもストイックだからである。社会科学の分野から労働へアプローチする過程で、今までの研究がどこか理論的軸がなかったのに対し、石田先生は恣意的な条件の選択をしないためにルールに着目し、その規則から帰納的に社会を見る。そのルールは論理的一貫性を持ち、それが労働者、そして企業を構成する人間を収束し、統制しているものではなくてはならない。石田先生の目は厳しい。根っからの研究者であると思われる石田先生はなぜ大学の教壇に立つのか、私たちに何を伝えたいのか、それは大学が学問の最高機関であるがゆえに起因する。「勉強はこんなにも楽しい」と口にする先生には、研究者石田光男ではなく、人間石田光男を感じ取ることができた。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 凝集力の高い理論構成 |
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キーワード2 | ダンロップ |
キーワード3 | 勉強の楽しさ |
キーワード4 | 社会科学 |
キーワード5 | 仕事論 |