学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 日本的雇用慣行と長時間労働における過労死・過労自殺 |
内容 | 長時間労働と過労死の問題は、日本的人事制度とその雇用慣行が原因であるという仮説を立て本論文の執筆に着手するに至った。そこで、本論文ではまず、戦後日本の人事制度がどのように変遷してきたかの概略を記し、ざっくりとその人事制度について理解してもらいたい。 第2章においては、日本とその他先進国との労働時間の比較を行っている。その比較を通して他の先進国よりも日本の労働時間、とりわけ残業時間に関しては他国と比較しても著しく長いということができる。またここでは、労働時間あたりの生産性についても比較している。長時間働いているにも関わらず、日本の生産性は非常に低い。 第3章においては、そんな長時間労働をもたらす日本の雇用慣行がもたらした過労死について言及している。この章では、熊沢誠「働き過ぎに斃れて」より、労働者がどのような勤務を経て過労死へと至るかの詳細記録を抜粋している。そこで示されているものからわかるのは、日本の労働者の働き方の実態である。全ての人間がそのような働き方であるとは断言し難いのであるが、間違いなくそういう働き方をしている人もいるということを示す記録である。 第4章では、全項踏まえての総論である。私なりに長時間労働を生み出す根源は、日本的雇用慣行にあるとしたこの仮説は、恐らく正しかったのだが、何も企業や政策のせいばかりではなく、この研究をしているうちに、労働者自身が旧来の悪しき日本的雇用慣行の意志のようなものを潜在的に持ちつつ働いているのではないかと感じそれについて言及している。 長時間労働と過労死の問題は、日本的人事制度とその雇用慣行が原因であるという仮説を立て本論文の執筆に着手するに至った。そこで、本論文ではまず、戦後日本の人事制度がどのように変遷してきたかの概略を記し、ざっくりとその人事制度について理解してもらいたい。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 人事制度 |
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キーワード2 | 日本的雇用慣行 |
キーワード3 | 過労死 |
キーワード4 | 過労自殺 |
キーワード5 | 長時間労働 |