学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 日本の小学校英語教育の実態~フィリピンとの英語教育の比較~ |
内容 | 日本と英語話者数アジア1位を誇る、フィリピンの小学校英語教育の比較研究をした。 日本では、未だに英語は教科として扱われておらず、コミュニケーション能力の素地を養うことを目標としている。一方フィリピンでは、幼稚園の頃から英語教育がスタートし、小学校では国語以外のほとんどの科目は英語で授業が行われているという。フィリピンの英語教育はかなり進んでいて日本も模倣すべき国のひとつであるように感じる。しかし、歴史やバックグラウンド、住んでいる環境が異なるので、単にフィリピンの英語教育を研究して、積極的に日本に取り入れていこうというのも無理な話である。実際、フィリピンでは社会的に成功するためには英語がマストであると言っても過言ではないが、日本では、英語が出来なくても、生活に何の支障もきたさない。そういう環境の中で「目的意識をしっかり持ち、英語の勉強をしましょう」と教師が声高らかに叫んでもきっと響かないだろう。フィリピンの生徒のようにポジティブな理由で英語を勉強したいという環境を作ることが出来ればまさにベストな状態である。そういうものが小学校教育現場には、これからより一層求められてくると考える。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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