学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 石田光男著『賃金の社会科学』を読んでみて |
内容 | 石田光男著「賃金の社会科学」(中央経済社、1990年)の第一章、第二章、第五章の要約。 一章では「企業社会の分析を通して現代社会を分析する」というこの著書の最終目的のための分析方法、なぜ分析対象が賃金なのか、賃金体系にはどのようなものが存在するか等、以後の調査にあたっての前提を中心に述べている。二章は日本における伝統的労使関係および賃金について。日本ではなぜ競争主義が取り入れられるようになったのか、日経連の文章等から読み取れる転換時期である昭和40年代半ばに繋がる、昭和20年代からの労使関係についてまとめている。五章は日本と比較すべきであるイギリスの労使関係について。その体質を賃金制度の考察を通じて明らかにしている。イギリスの労使関係が抱える問題及びその労使関係に変化の兆しが見え始める1980年代を中心に記述している。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 職務給・職能給 |
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キーワード2 | 能力主義・平等主義 |
キーワード3 | 公平感 |
キーワード4 | 労働の柔軟化 |
キーワード5 | ハーモナイゼーション |