学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 女性の働き方における人生の選択 |
内容 | 本論文では、働き方の選択について論じている。男性と同様に働きたいから正社員を選択したにも関わらず女性であるがゆえにそれが阻害されてしまっている女性、家庭と仕事を両立するためにパートタイム労働を選択した女性、家庭に入りたいという思いから専業主婦になった女性、さらに、「働く」以外に選択肢のない男性たちについての現状や問題点について研究を進めた。 また、女性の社会進出が謳われるなか、昔ながらの性別役割分業を否定する意見が増えていることにも注目した。これでは、正社員として働くという選択以外をした女性が生きづらい世の中になってしまうのではないかと考えたためである。ここであえて性別役割分業を肯定し、自身の経験を元に独自の考え方を展開する西部邁の意見を紹介することで、「あるべき論」と「現実」の乖離について訴えた。 今回の論文では「働き方」に焦点を当て選択の仕方を論じたが、男性であっても女性であっても、一人ひとりの人生に正解はなく、岐路に立たされたとき、人々は「こうあるべき」という理想と「こうしたい」という欲望の狭間で揺れ、自分の経験を元に判断し、選択していくことが人生であると考えることができた。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 女性の社会進出 |
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キーワード2 | 男女雇用機会均等法 |
キーワード3 | 性別役割分業 |
キーワード4 | 西部邁 |
キーワード5 |