学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 賃金の社会科学 |
内容 | 本書では、日本の企業内部の先進性をイギリスのそれと比べ力説されている。日本社会の競争主義的関係についてこの本では積極的に評価されている。 第1章では、日本がどのような特性を帯びた社会なのかを分析するために、まず現代社会の分析は企業社会の分析から出発すべきだという前提で話が進められ、企業社会を分析する上で著者は労使関係論から発想して問題を突き詰めている。第2章では、賃金体系をめぐる労使の政策とその背後の思想を振り返っている。この章のテーマとして、なぜ日本の組織労使関係者の中にも競争主義が受け入れられるのかである。競争主義を体現する具体的な賃金制度を日本の経営者がどのように模索していったのかが描かれる。第5章では、イギリスの賃金制度の考察を通してイギリスの労使関係の体質を明らかにすることが目的とされる。この章では、イギリスの労働者が受け取っている賃金の中の基本給の考察を対象としているが、イギリス人の賃金研究所や実務書は殆ど全てが出来高賃金に関するものであり、なぜ労使関係の体質の根拠に迫る研究が存在しないのかという疑問から出発している。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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