学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2013年度 |
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タイトル | 人の幸せは「学歴」で得られるのか~賃金で考える~ |
内容 | なぜ、親は子に「勉強しなさい」と言うのか。その疑問に、親は子供の幸せを願ってのことだと仮定する。勉強をすることにより高い学歴を持つことができれば、良い企業に就職し高給を得ることが親の望みであり、子供の幸せの形なのだと。 そこで、第1章では学歴を得るということで、どのような機会を得る可能性があるのかについて言及する。そうすることで、学歴を持つことのインセンティブを述べた。第2章においては、学歴がない場合に起こり得る格差について言及することにより、親の子供に勉強をさせることの姿勢に正当性を持たせた。第3章では、高学歴を持つことが本当に子供の幸せにつながるのかをアンケートやニュースを基に考察している。全ての章を考察していった結果、学歴と賃金の間には関係性を認めることができたのだが、学歴と幸せの間には確実な相関関係を認めることができなかった。つまり、幸せとは人の価値観によるものであり、大企業・高給を得ることは幸せの1つの形に過ぎなかったということである。答えは無数にあり見つけだすことはできなかったが、この論文を読んだ人に自分の将来をもう一度考え直すキッカケになればと願う。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 学歴 |
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キーワード2 | 賃金 |
キーワード3 | 格差 |
キーワード4 | 幸せ |
キーワード5 | 橘木俊詔 |