卒業論文詳細

学科産業関係学科 ゼミ教員名石田 光男 年度2013年度
タイトル石田光男先生から人生を学ぶ
内容  私のゼミの教授である産業関係学科の石田先生は学生にとって、「産関論」という難しい講義と、先生の難しい著書から恐れる対象である。しかし、私は石田先生の優しさと厳しさに魅力を感じ、先生のゼミに入った。しかし、石田先生の授業を受ければ受けるほど、先生のお言葉は私にとって不可解なことがさらに多くなった。「人生は憂鬱だ。」「苦しみに潜りなさい。」などの先生のその不思議な言葉の裏に、どのような考え方が基づいていているのか知りたいと思った。そのヒントは西部と漱石、諭吉にあった。先生が推薦してくださった本と先生へのインタビューから「石田光男」に近づきたいと思う。「平凡の非凡」「規則・規範」「絶対の相対化・二重性」「絶対と個人の尊重」「孤独の憂鬱」「エゴ再形成」「人間交際の危険」「励まし」「熱狂と平衡」この九つのキーワードから石田光男の心の中を探る。
インタビューの中で印象的であったことは、忙しいお時間の中でも、私の質問に心を込めて真剣に答えてくださったことである。自分は他者への関心が少ないとおっしゃっていても、いつも優しさを忘れないのが石田先生である。流行り言葉を使うならツンデレである。

講評  卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
 そこからが君たちの出発である。
 いくつかのコメントをしたい。
 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業で終わり、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっているのは自明ではないか。偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
キーワード1 石田光男
キーワード2 平凡の非凡
キーワード3 規則
キーワード4
キーワード5