学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2014年度 |
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タイトル | 日米の人事制度 |
内容 | 本論文では、産業関係学科で4年間学んだ集大成として最も力を入れて学んだ「賃金」というものをアメリカとの比較を通して日本とアメリカにおける賃金制度、人事制度、またその伝統的変遷や変遷について議論したものである。ここでは、石田光男著「日米比較の人事制度」、「仕事の社会科学」を用いて日米の賃金制度を理解しようとした。両国は全く異なる制度を有してきたが、双方ともに「役割」という概念を制度に組み込むということに収斂したと言える。アメリカと日本両国ともに人事制度の背景には弱みが存在している。市場から制度を発想してきたか、組織から制度を発想してきたかという違いである。そしてアメリカならば「職務給」日本ならば年功的処遇というこの両国の歴史的制約が人事制度の変遷にどう影響してきたのかを考えた。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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キーワード1 | 賃金制度 |
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キーワード2 | コンピテンシー |
キーワード3 | 部門業績管理 |
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