卒業論文詳細

学科産業関係学科 ゼミ教員名石田 光男 年度2014年度
タイトル石田先生のGMの経験を読み解いて人生を学ぶ
内容 石田光男教授、本学の社会学部産業関係学科の教授であると共に私のゼミの先生である。私はこれまでの三年間、大学の講義を真面目に受けてこなかった。大学の勉強は社会で生きていくために必要なものなのか、役立つのか、大学はとにかく卒業さえできればいい。と、当時の私は考えていたのである。しかしこの、石田先生の「GMの経験-日本の教訓-」を通して石田先生がよく口にしている「大学の勉強は社会に地続きである。」・「本当に勉強することは何なのか。本当に生きることは何なのか。」について迫るものとなっている。
 内容としては、第一章では石田先生へのヒアリング調査を行っている。ヒアリングの趣旨は主に石田先生の今の学問に至る経緯や人柄、考え方に迫るものとなっている。ヒアリングを通して私のゼミの教授である石田先生のことを私なりに向かい合って、少しでも「すっきり分かりたかった」というものだ。
第二章では、この「GMの経験-日本の教訓-」の内容を各節毎に要約し考察したものとなっている。以上二章からなる卒業論文となっている。
講評 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。
そこからが君たちの出発である。
いくつかのコメントをしたい。
第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。
第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。
第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。
 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。
 
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