学科 | 産業関係学科 | ゼミ教員名 | 石田 光男 | 年度 | 2014年度 |
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タイトル | IRとIR |
内容 | 社会は見えにくい。一学生として、一市民として、日常生活を送る私にとっては、社会情勢という事実はまさしく天から降ってくるようなものである。様々なニュースに目を通し、社会情勢をフォローしようとしていても、実際の社会の実態というものは、全くの闇の中に包まれていて、そのブラックボックスの中から出てきたものを私たちは批評しているだけなのかもしれない。こういった社会の見えにくさはある意味当然でもである。あらゆる要素の集合体によって社会が成り立っていると考えた際に、何が有意味で何が無意味であるのかという究極の取捨選択を余儀なくされるからである。IRは、組織内部における「ルール=規則」こそが、社会を取り巻く様々な要素が有機的に関連しあっていている点=記号であり、当事者相互の社会関係の凝結=暫定的均衡点であると解釈することで、社会を洞察する学問である。そして、「労働」という日常性にスポットを当てておきながら、単なるケーススタディでもなければ、様々な学問領域にまたがる学際性をもった「今風な」学問でもない、確固たる独立した学問群であるという、ディシプリンを提供したのである。 |
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講評 | 卒業論文は一人一人の言葉の正しい意味での自己紹介だと思う。「わたしはこういう人間です」「これ以上でもこれ以下でもありません、私という人間は」ということをどうしても表現することになってしまうのが言葉の本性だからである。言葉遣いの現在の到達点、それが各人の卒業論文である。 そこからが君たちの出発である。 いくつかのコメントをしたい。 第一、参考文献からの引用は丁寧にということを強調した。私は正直な論文が好きだ。だから他者からの引用と自分自身の言葉とを仕分けする作業は正直な自分になる作業である。その結果、みすぼらしい自分の発見に行き着くことが多いとは言え、かすかな輝やきをたたえている自分もそこにはかならずいるはずだ。その輝きを火種にこの人生を歩むのだ。 第二、実証的な研究であれ、文献研究であれ、自分を横に置いた論文はよくない。直ぐに反論があろう。実証研究であれば、事実に虚心に向かえば向かうほど自分などを出しようがないではないか、文献研究であれば文献の論旨を正しく追えば追うほど自分などを出しようがないではないかと。しかし、無限な事実の中からどんな事実が重要だと観るかに自分が現れるのだし、文献研究であればマル写しでない以上、自分の読み方が現れるのだ。その自分の現れ方、あるいは表し方が自分の個性であり、その説得力が自分の力量なのだ。そもそも自分を隠し続ける勉強などは面白くもないはずだ。勉強は打算でやるのではなくて面白いからやるのだ、ということをわかって卒業して欲しい。 第三、研究(勉強)と社会での仕事の関係。研究(勉強)は卒業でお終い、4月からは仕事という別世界だという理解は浅はかである。仕事を始めてみて本当の勉強が始まったと先輩たちは言う。実は地続きなのだ。全く二つの世界が別物であれば、いいですか、大学での勉強は無用だということになる。その気配が濃厚に漂っているのが現代日本ではあるけれど。仕事には実践が伴うが、勉強には認識という脳細胞の活動はあっても実践が伴わないという区分が先の言明の根拠になっているが、認識と実践とはさほど機械的に区分できない。「こう考える」、だからこうしてみようというように地続きになっている。 偽りのない自分の到達点としての卒業論文を直視して、そこから自らの研鑽を積み上げていって欲しい。 |
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